学校に通う意味を大人になって改めて考えてみる

学校に通う意味を大人になって改めて考えてみる

学校に通う意味を大人になって改めて考えてみる

長期休みが明けるとやる気が出ないこともありますよね。

子どもの頃、休みが明けて学校に行けることは楽しみだったのに、
大人になり働くようになると、楽しいだけではない気分も感じるようになりました。

それでも働きます。

それは生活のため、夢や目標のため、、、探せば理由はいくつもあるでしょう。

ですが不意に「大人には会社や組織などで働く意味があるけれど、
子どもが学校に通う意味って何だったのだろう?」と疑問に思いました。

そこで、今回は『子どもが学校に通う意味』について考えてみます。

子どもが学校に通う意味は正解だらけ

子どもが学校に通う理由考えてみるとたくさんありました。

例えば、勉強するため、友達と遊ぶため、好きな子に会いたいから、部活に一生懸命だから、、、

いろんな理由が思いつきますが、きっとどれも正解で、人の数だけ答えのある疑問でしょう。

私自身、当時の気持ちを思い返すと、、、特に何も考えずに学校に通っていたと思います。

行くのが嫌だと思った事はあったかもしれないけれど、
当たり前のように学校に行き、意味を考えることすらしなかった気がします。

ですので、子どもの頃の自分に「学校に通う意味は?」と問われたら、
「わからない」もしくは「将来のため」など曖昧な答えをしていたでしょう。

けれども、大人になって改めて子どもが学校に通う意味を考えてみると、
『不自由を学ぶこと』にあったのかなと思うようになりました。

大人になった自分が考える学校に通う意味は『不自由さ』

思い返すと、私にとって学校は『不自由な場所』でした。

カリキュラムが決まっているから好きな教科の勉強だけをすることはできないし、
授業時間も決められているから4時間目が終わるまで給食は食べられない。

こんな風に、学校にはルールが存在して、そのルールの上で生活をしなければなりません。

しかもそれは、自分一人では覆せない圧倒的なもので、
凄く不自由に感じるものだったと思います。

学校は自分や家族以外の人が決めたルールを守り、不自由の中で共同生活をする場所。

そんな不自由の中で生活するのは息苦しいようにも思えますが、
でも実は「不自由こそ大事な環境だった」と今は感じています。

不自由の中で生活することに学校に通う意味がある。

私がそう思うのは「社会は不自由なものだから」と考えているからかもしれません。

社会は秩序が保たれた上で成り立っている

社会は秩序が保たれた上で成り立っています。

交通ルールや公共施設でのマナーなど、一歩外に出ればそこには社会があって、
その社会は人々が共同生活をするために存在しています。

急いでいるからと赤信号を渡ったり、楽しいからと図書館で大きな声で会話をしたり、
『自分が良ければそれでいい』で社会は動いていません。

つまり、集団で生きている以上、
「ルールを守った上で発言や行動をする必要」があります。

それは見方を変えれば不自由なことかもしれません。

けれども、ルールを守ることで自分も守られている部分があるのも事実。

自由な発言や行動ができるのは秩序が保たれているからで、
それを身をもって体験したのが学校だったと思います。

学校に通って不自由を学んでいたことは、
子どもの頃には気づけなかった大きな財産だったかもしれません。

『不自由は自由のために存在している』と考えてみる

不自由と聞くとマイナスのイメージを受けますが、
『不自由は自由のために存在している』と考えると急に道が開けたように感じます。

それは不自由が超えるべきハードルのように感じるから。

例えば、作文にしても「自由に書いていいよ」と言われると、
「何を書いたらいいか分からない」ということも珍しくありません。

けれども、テーマが決まっていたり、文字数が決まっているなど、
不自由を与えられると、その方が意外と自由な発想や表現がしやすいものです。

それは不自由がハードルになって、「このハードルを越えるにはどうしたらいいのだろう?」
と自然に考えるようになるからかもしれません。

こんな風に、不自由を楽しむようになれたら自然と前向きな気持ちになっていきます。

学校に通う意味は子どもの頃は分からなかった。

けれども、当たり前のように学校に通えたことを大人になって改めて考えてみたら、
とても感謝すべきことだったと感じます。

学校に通う意味は子どもの頃にはわからない。

大人になって初めて気づく事なのかもしれませんね。

マナビエル文章サポート担当 松田 裕司

そだてるカテゴリの最新記事